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Introduce
🔽Motti(モッチ)
Takarazuka , Japan
🔽FX専業トレーダー🔽
- FX&暗号資産 18年
- FX&暗号資産 個人レッスン 13年 -
- FX&暗号資産 専業トレーダー 10年 -
既婚,4児の父
前職は💎某外資系宝飾ブランド
🔽 GIAGG 🔽
日本に2000~3000人しかいない内の
【 1人 】
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『 Mottiの半生 』
【 幼少期 】
その後は神奈川県の湘南にて
父親の会社の社宅(昔ながらの団地、今はUR賃貸とかで安く借りられるような物件)で
幼少期を過ごしてました。(4人家族)
【 少年期 関東編 】
幼少期の頃から、父親の仕事の関係で転勤族だった為、
神奈川県内を転々としつつ、最後に覚えているのが神奈川県の横浜でした。
私の記憶力が悪いのか、何なのかは分かりませんが、
小学4年生以前の記憶がなかったりします。
小学4年生の時は、今でいうジャイアンタイプ?で、友達をたくさん従えて(低学年も含め)
高学年(5年、6年)に喧嘩を売りに行くという、今考えてもめちゃくちゃ生意気な子供だったと思います。
喧嘩の理由も、生意気だからという理由で喧嘩になることもありましたが(高学年にお前生意気だぞと言われる)
低学年や同じ学年の子がやられていたら、その仕返しにやり返しにいくというスタイルで
何かと上の権力に対しての反発心みたいなのが、この頃からあったみたいです。
色々あったものの、皆に囲まれて楽しい4年生も過ぎ、4年の終わりに
また父親の仕事の関係で引っ越しをする事になりましたが、
【 そこから次に続く転落人生の始まりでした 】
🔽 引っ越し先はこれまでの関東圏ではなく関西圏でした。
父親の地元が関西と言う事もあり
その地元に近づいた形です、後から父親に聞くと
ずっと関西に転勤願いを出していてようやく叶ったとか何とか。
私としては正直友達もたくさんいるし
新しい学校に行って友達作るのもめんどくさいし
なんか嫌だなぁと思いつつも、親に従うしかありませんので
お別れ会をやってもらって、いやいや引っ越しをしたのを覚えております。
【 少年期 関西編 】
引っ越し先は関西の奈良県、
奈良県といっても下の方だと絶望的ですが(今は田舎いいなぁと思いますが、子供の時は都会から田舎なので)
京都寄りの奈良県北部のニュータウンっぽい所に引っ越しとなりました。
といっても、やはり関東の多少都会なところにいた身なので
そこと比べると奈良県の北部であろうとも田舎に感じて嫌でした。
そして小学校に入ってから始めての転校でした。
これは色々偶然が重なり、
私が行く小学校が、たまたま設立の年で、
6年生がいなくて、私含む、新5年生が一番上の学年という状態での通学となりました。
個人的には上の学年がいないので
上から言われることもないし、楽で良いなぁと思ったのも束の間、
それ以前の問題が、言葉の問題でした。
私はずっと関東にいたので標準語、
関西の周りの小学生はもちろん関西弁。
設立の年(新しく出来た小学校)の
初の転校生、そして標準語、それは目立つに決まってます。
何かと授業の時に先生にいじられ、
まだ友達でもないクラスの子、別のクラスの子からいじられ
これ標準語なら何て言うん~?教えてぇやぁ~と
関西に住んでいたら普通の会話でしょうが、関東住みの標準語の身からすると
そういうノリというのが全く分からずに、なめられていると思ってましたが
小学校5年でまわりに友達もいなくて(その他の子たちは周りの小学校から編成されて移ってきて、友達もいた)
そこから友達作りに苦労していたのを覚えています。
🔽 何だかんだありつつも、友達は出来て
その地域の中学校に行く事になりましたが、そこまではまだ平穏な日々でした。
中学校2年生になり、思春期に入ってきて難しくなってくる頃に
【 引っ越しをするぞ 】とまた父親が一声。
阪神淡路大震災が小学生5~6年の頃にあり
父親の実家がそれで3~4割半壊?で何だかんだでやり過ごしてきたものの
もう駄目だろうと言う事で、父親の実家に家を建て直す事になり
それを機に引っ越しという流れでした。
低学年、100歩譲って小学生の間であればまだ良かったですが
中学生の2年の末、受験も後ろに控えていて
新しく中学校がどういう中学校かすらも分からず、治安も分からず。
小学生の時と同様に嫌な予感しかしませんでしたが、
親についていくしかない為、嫌々ながらも引っ越しとなりました。
【 青年期 中学編 】
引っ越し自体は一先ず無事にすみましたが、
これから中学校に馴染めるかどうか、それが一番の不安でした。
私も含め、周りの子達も思春期に入る時期ですし
まだまだ子供です。
行きたくないなぁと思いつつも、登校日が1日1日と近づいきて
登校日がついにきてしまいました。
朝ご飯を食べて、真新しい制服を着て、家からトボトボと歩いていくと
中学校が徐々に見える位置で何かが動いているのが目につきました。
何かな?と思って遠目に動いている何かを見上げると、
髪の毛が金髪、緑、赤の人達が足をぶらぶらさせながらクラスの外?みたいな所で座ってました。
私の嫌な予感は的中してしまい
勿論みんなが皆ではないですが、その学校のヒエラルキーはその人達だろうなと
一瞬で理解しましたし、世紀末かよ・・と思ったのを覚えております。
🔽 後から調べると、
その中学校と言うのはその地域で一番二番を争う
悪童が多い中学校と言うので有名で、警察沙汰はザラ(他校との喧嘩含む)
実際その中学校内で死者が出てているような中学校でした。(今は違いますが、その当時は)
親もそういう下調べをせずに
とりあえず近場に行かせばええやろ、的な感じで行かせたかもしれませんが
行った本人はたまったもんじゃありません。
結局、私が登校した数日後に
行きか帰りか忘れましたが、転校生と言う事で因縁をつけられて(家も新築?で目立っていたとか)
一番悪そうな一人に呼び止められ、訳も分からず暴行をされました。
🔽 引っ越ししてきた矢先に友達もおらず、そういう暴行をされたので
結局そこからの中学校生活は(1年弱)
今でいう引きこもりのような生活をして、
年に数回行ったか行ってないかぐらいしか中学校は通ってません。
ただ、親も引け目を感じたのか(母親の方)
その学校に色々掛け合いつつ、同じクラスの子達(生徒会系の良い人達)を家に呼んで
何とか私を学校に行かせようとしてくれたりしましたが、それでも結局良い思い出はなかったと思います。
今思えば黒歴史ですし
その当時はお先真っ暗で、何もする気が起きなかったりもしました。(雨の日がなぜか嬉しくなる)
【 青年期 高校編 】
🔽 高校に入る時期も迫ってきて
願書だけは何とか学校と掛け合って?(ほとんど行ってないので、成績なんか出ませんが)
高校は近所ではなくて、お金を出せば誰でも行けるレベルの私立高校に何とかいく事が出来ました。
そこの高校から、徐々に本来の自分を取り戻せた気もします。
中学校で1年余り染みついてしまった習慣(朝が弱い、昼夜逆転)は
最初は修正するのはしんどかったですが、
ここで変わらないとまた同じ繰り返しになる、それだけはご免だ、と自分自身に言い聞かせながら
何とか歯を食いしばって、通常の習慣に切り替えていきました。
高校生活は至って平穏で
部活もテニス部に入り、朝一で誰よりも早く入って壁打ちをして
その後同じテニス部の仲間達と練習、その後に授業を受けて
放課後に暗くなるまで仲間達とテニスをひたすらやるという生活を3年間継続してました。
🔽 高校はそのまま大学に繋がっているエスカレーターでしたので、
親や友達周りから、とりあえず何も決めてなかったら行けば?と言われましたが、実は悩んでました。
高校に入ってから、何か手に職を付けたいとずっと思っていたので、
高校を卒業したら美容師になりたいと思って自分なりに練習をしたりして、
準備はしてましたが、最後の最後で親に大学だけは行ってほしいと懇願されて
そこも親の意向を聞いた形となりました(まだまだ子供ですし、世間が何も分からないので仕方ないですが)
【 青年期 大学編 】
そのままテニス仲間達と大学生になり
何が変わったかと言うと、さほど特に変わらず(テニスサークルに移行)
しいて言えば、通学が車(中古車)に変わり(免許取り立て)、バイトをたくさんしたという事ぐらいでした。
バイトに関して言えば、
元々朝が弱いというのがあったので(高校の時はテニスをする目的で起きれましたが)、
それを根本から叩き直したいというのが根底にあったので
近所の駅構内にあるミニコンビニみたいなのが丁度スタートアップで募集をかけていたため、
迷わずそこに応募し、そしてみんなが嫌がる?であろう朝一のシフトを選択しました。
シフト的には朝の4時出勤~9時や10時終わりでしたので、
夜の10時に寝て、朝の3時におきてを日々繰り返しておりました。
寒い日も、雨が降っている日も、嵐の日もありましたが
結局そこのバイトは大学卒業迄継続する事が出来て
始めて仕事をして、達成感があったのはそのバイトだった気がします。
(短期バイトは、夏とかにちょこちょこ別にしてました)
🔽 大学も2回生、3回生中頃になると
普通の大学であればそろそろ就職だ、と言う形で就職活動に勤しみますが
その大学はそういう事もあまりなく(ちょこちょこあったらしいですが)
そのまま4回生になって、夏も過ぎ、半年後に卒業も迫ってきたころ。
あれ、就職しなきゃいけないのに何もしてないけど
やばくない?と
そこで初めて気が付きました。(遅すぎるし、今考えてもアホだったなと思います)
勿論高校の時に書いた通り、お金を出せば誰でも行ける高校、そして大学なわけなので
学歴と言う学歴でもなく(大卒と言うだけ)
勉強らしい勉強もほとんどしてこなかったわけです。(バイトと仲間、その当時の彼女と遊んでいただけ)
何をしたらいいのか、そして誰が雇ってくれるのか?
それを4回生の夏休み過ぎに考え出すという遅すぎる所業。
結局何がしたいのかもわからず
このままバイト生活に突入か・・、いやいやそれは流石に厳しいし
何でも良いので正社員を勝ち取らないといけないな、、と強く思ったのを覚えています。
色々親とも喋りつつ
何かしら資格を取って、それを活かした仕事をしたいという流れになり、
大学卒業後は、宝石鑑定士(何かごろがかっこいいと思ってしまった)の資格をとって
世界を飛び回ろう、とか世間を何も知らない大学生が思いつきそうな流れに決まってしまいました。
🔽 今、私が親の身になってわかりますが、せめて大学生に入ってから
そうならないように教えてくれれば・・とも思いましたが
親の性格もあるので、それは人それぞれという感じで納得はしてます(汗
【 青年期 専門学校(GIAGG)編 】
大学は無事に卒業する事ができ
新卒の人達が通勤に揺られているのを横目にしつつ
同じ通勤電車に揺られつつ、大阪にあるGIAGGの専門学校(今は廃校)に行く事になりました。
宝石の鑑定ですので、
最初は何をするのかワクワクでしたが、
午前は知識、午後は鑑定、という流れで半年間みっちり通いとなりました。
ここにいた仲間達も
たまたま同い年や、多少前後する年齢がいたり、
私の親世代の方がいたり、逆に10代の方がいたりと、色々な方がおりました。
宝石が好きとか、綺麗なものが好き、今の仕事のステップアップ、私みたいに資格を取って就職したい、
親が宝飾経営している等々、色々な出会いがあったりしました。
🔽 成績に関しては、
一律皆スタートでしたし、好きに慣れそうな事だったので
一番を目指そうと思いコツコツ積み重ねました。
日の試験、週の試験、月の試験、
知識+鑑定の試験が半年間続きましたが、ようやく最終試験に近づいてきました。
最後の試験は、1000石以上ある石をランダムに取って
取った10石を100%当てきれないと落第というものでした。
自信はありましたし、
一番乗りで合格するつもりでしたが・・、落第となりました。
ただチャンスは数回あるので、3回ぐらいまでに合格すれば
OKとかだったと思うので、何とかその3回目に合格する事が出来ました。
※合格出来ないと、オンラインコースに自動的に移行になって、そこで再度勉強した後に試験という流れで
数名合格出来ていない方がいた記憶があります。(私含む友人達は皆合格となりましたが)
🔽 合格後は、GIAGGを持っている人は数が少ない為
宝飾業界の会社(小売り、営業、百貨店、外資、etc..)の合同就職面接みたいなのがあり、
私は某大阪の大手百貨店に入っている宝飾会社に就職する事が決まりました。
友人達も、外資に行ったり、自分で店を立ち上げたり、
趣味の範疇で楽しんでいる人がいたり(その当時、年に2回、神戸と東京にあるジュエリーイベントにいったり)
その後はバラバラになってしまったりしましたが、宝飾業界は狭いので
毎年どこかで出会ったりはしておりました(百貨店の外商の展示会とかですね)
※外商と言うのは、年収数千万~数百億単位の百貨店のお得意様の意味。
【 成人期 新卒編 】
私が入社した会社は、昔ながらの会社(年功序列)で数十年以上やってる人達が先輩として(親世代)おりました。
仕事終わりの飲み会があったり(お酒を注いだり、注文を取ったりしなければいけない系)
職場での反省会があったり、
その職場で良い出会いも色々ありましたが(今も唯一付き合いがある親友が出来たりですね)
入社して1ヶ月で、ある程度吸収したらもう辞めようと思いました。
GIAGG(宝石鑑定士)という資格を持っていたとしても
やっている事は結局、宝石の販売でしかないわけですし
売り上げが良い人はその月は褒められて、売り上げが悪ければ詰められる。
物を売ると言う事に対して、GIAGGはオマケでしかなく
宝石のプロと言うのは間違いないですが、それを販売を結びつけるのは難しかったわけです。
勿論新卒で販売のスキルもないので(これは後天的に学んで向上はしましたが)
定型文しか言えなかったり、百貨店側で勉強会も強制であったので
徐々に慣れていったものの、通勤して、宝石を売っての繰り返し。(平日はほどんどお客こず)
昔は宝石業というのは給料が立った(現金手渡しの頃らしく、ボーナス時は100万200万はザラ)
という世代に囲まれて、今はなぁ・・という声を毎日聞いていて
業界的にも先はないなと、半年過ぎたころに気付き出しました。
※宝飾業界選ぶ前に気付ければ・・ですが、その当時はアホでしたので分からず。
🔽 百貨店の宝飾スペースも
一つの会社ではなくて、その当時は複数の会社が混在(A社B社C社みたいな)しており
同じフロアに同業者がいて、お互い敵対している状態での販売となります。
お互いの足の引っ張り合いもありましたし(如何にお客さんに早く着くか=声をかけるか)
見た目は華やかでも、裏ではドロドロの戦いがあったりしました。
声をかけられて鬱陶しいと思うお客さんも多いですが、
販売側の裏側では声をかけないと販売権がなくなるので(敵業者に取られる)
分かっていても声をかけざるを得ないというのがあったりします。(私はそれがめちゃ苦手でした)
お客さんがこの宝石良いなぁと言ったとしても(ファッションジュエリーや、ブライダル含みます)
販売員側は敵業者の販売物なので、あの手この手で言いくるめて自社の製品にもっていったり、
それでもどうしても覆せない場合は、一応同じフロアにいる敵会社の社員に
【 今回は借りやで 】みたいな感じでのやり取りがあったりします。
1ヶ月2ヶ月過ぎ、半年過ぎ、
狭いフロアで、土日はこの見えない攻防を繰り返しつつも
何となく販売の習慣がついてきたころに、たまたま外資の人と二人きりになって話す機会がありました。
百貨店はイベントと言って
一番目立つ位置に、宝飾のフロアを作って(一番出入りがある1階の目立つスペース)
そこで期間限定で宝石販売していたりします(これは百貨店行く人ならわかるはずですが)
上記の会話のようなことを
その外資の人に喋っていたところ、たまたまウチ(外資)で営業が一人必要だから
あれだったら面接だけでも受けてみる?と言われ、
これはまたとないチャンス!と思い、そのまま数ヶ月経過はしましたが
その外資の営業部長と、誘ってくれた所長との面接となりました。
【 成人期 外資編 】
トントン拍子で、面接も受かり、
最終面接の社長面接となりました。
その社長は宝飾業界では有名で(女性社長)
日本人の顔はしておりますが、中身は数字しかみない、まさに外資!という厳しい方ではありました。
新卒で入った会社で成績はそれこそ普通でしたが
その社長には、なぜか気に入られておりました。(唯一昼に社長とご飯を行ってたのが私だったりしました)
今回もなぜか社長面接でもOKが出て、
とりあえず頑張ってみなさい、と言われて入社となりました。
ただ、外から見ると
百貨店の小売り会社から、私を引き抜いた形になるので(外資の会社が)
入社してから、私が退社するまでそこの会社(新卒で入った)と関わる事になりましたが(取引先だったので)
最初の数年は気まずかったりしたのを記憶しております。
🔽 外資に入社して驚いたのが、誰も何もしてくれないと言う事。
勿論、スキルがあるんでしょ?というテイで引き抜かれた形ですので、聞くことすら出来ません。
※これも後から分かる事ですが、その会社は入社出来ても数ヶ月~数年で辞める事が多い会社だったみたいです。
営業で入社したものの、まだ新卒1年が過ぎた、2年目ぐらい。
まだまだ分からない事が多い中で、初外資、そして結果が出ないとクビだよと言われ続けていたので
どうやればクビにならずに、結果が出せるのかどうか?を日々思考錯誤しておりました。
日々新鮮で刺激が多かったですが、そこである意味覚醒したかもしれません。
※外資入社後~今に至る迄、日々勉強(他ジャンル全て=雑学)の習慣ができた感じですね。
入社して1ヶ月で、大阪にある営業所を一旦しめて仕切りなおすから、と言う事で
営業3人以外はクビという状態になりました。
営業の3人も所長、課長、私です。
後から聞くと私も切るかどうか迷っていたみたいでした。
ただ、入社1日目からクビが付きまとっていたので
分からないことは聞けないので、自分で調べて勉強して、報告してたりしました。
まだまだペーペーでしたが、
やる気はありそうだし、まだ若く独身(その時は)なので、東京の本社に来なさいと社長から言われました。
【 成人期 外資・東京編 】
そんなこんなで、入社して1ヶ月でクビ寸前でしたが
まさに首の皮一枚残した状態で、東京勤務(転勤)となりました。
営業ではなくて、本社勤務なので
何をやるのかなとは思ってましたが、行ってから~という話に一応なってましたので
行ってから考えるか・・イヤでも何かあるかもだから、準備だけはしておこうとは思ってはおりました。
本社は東京の表参道にありました、
満員電車には基本乗りたくないという意向から、
住む地域は表参道から近場で探すと決めてました。
結果住む場所は、渋谷の神山町。
渋谷駅から東急百貨店渋谷、そして松濤を抜けて、その先にあるマンションに決めました。
※その当時、麻生総理大臣の時期で
麻生総理大臣の家が松濤にあり、しかも私が借りたマンションの目と鼻の先で、
いつも警察官が立っているなぁ‥と思って調べると、あの家が麻生さんの家かぁ、と納得したのを覚えてます。
東京メトロ千代田線の代々木公園駅から2駅先が表参道。
家から会社まで20分圏内でいける位置での東京一人暮らしとなりました。
※関西でも新卒時に家を出て、大阪府吹田市の江坂で一人暮らしはしておりました。
🔽 東京勤務初日、これも高校の時からの癖かもしれませんが、
誰よりも早く行くというのが個人的には好きだったので
東京勤務初日にも同じ行動をとりました。
すると、会社は既にあいていて
宝石がしまってある金庫スペースに人影が見え
その人影をみて、少し私は嬉しくなりました。
その人影の正体は、私が入社した時に同時に入社した(人影の人は東京勤務)人で
入社場所は違えども、同期の人でした(年上でしたが)
電話では何回か会話をしていて、
東京勤務になる旨も伝えていて、楽しみにしてますね!と言ってましたので
その人影が同期の人だったため嬉しくなったわけですね。
その人に挨拶をするために、速足で近づいていき、
第一声【 おはようございます! 】と多少声を張って声掛けをしました。
シーン・・・、あれ聞こえてないのかな?と思い
社内に二人しかいないですし、目の前にいるのに・・?
何かの間違えかな?と思って、もう一度同じレベルで
【 おはようございます! 】
シーン・・、そこで察したわけですね。
この人はそういう人なんだと。
🔽 明らかな格下には挨拶をしない(同期だけど私の方が年下)
同等か格上には挨拶をする。(ただ周りにはそう見えないようにするタイプ)
実際にそういう人間にあったの初めてだったので
これが外資の洗礼かぁ、、と思いつつ
そのしょっぱなは驚きましたが、その時、その瞬間に決心したわけですね。
【 逆に毎日でかい声で挨拶してやろうと 】
正直、何だコイツと思いながらも、
逆にそれで自分自身のやる気がアップされて、
日々の仕事にも熱が入ったので(そいつより仕事絶対こなすみたいな)
今振り返れば、逆に感謝していたりします。
とは言え東京勤務初日、そしてそれから一週間、二週間経過しても
これという仕事が全くありません。
あるとすれば雑用のような仕事で、
このために東京来たんじゃないのになぁ‥と思いつつも
こればっかり続けているとクビになるという意識は常ありました。
東京勤務になってからは、お昼はたまに同僚(女子が9割なので、ほぼ女子とですが)と
ご飯に行くぐらいで、一人で食べる場合はサッと昼ご飯はすまして、
残りの時間をすべて、外苑前の3番出口の前にある、本屋に行って立ち読みをし
良い本があれば買って帰って読書(勉強込み)
平日は寝る間も惜しんで勉強をしつつ
休日も同様にクビにならないように英語を勉強しなおしたり(ロゼッタストーンでですね)
周りに追いつこうという感じでコツコツ積み重ねていたりしました。(元々学歴はナイに等しいので)
🔽 その結果もあって、色々自分で社内のシステムをいじったり、
効率化できる部分を部長、社長にその都度提案&プレゼンをして、
これをこうやったらこれぐらい時間削れて、皆にもわかりやすく効率よく出来るので、
という感じで仕事を進めていきました。
となると、社長も社長ですので
実際にその通りになっていくと、じゃああなたにあれ任すわね、
これも任すわねという感じで、仕事が雪だるま式に増えていきました。
ただそれでも、仕事に対しての効率化と時間に対して色々決めていたりしたので
朝は誰よりも早く出勤して仕事をしますが、帰りは定時きっちり17時で帰ってました。
そうすると、17時を過ぎてもダラダラ何をしているか分からない人達のトップ(お局さん)から
私は早く帰りすぎる、仕事をさぼってるのではないか?という声があがったりしましたが、
部長と社長は成果を知っているので、お咎めなし。
どこにいても、足を引っ張る人はいるし
外資と言えども優秀な人だけじゃないんだな、とそこらあたりで気づき始めました。
🔽 本社勤務になり半年過ぎたころ、私の仕事は冗談抜きで、
経理、海外との交渉以外の仕事は請け負ってしまってました。
社内システム、
全国の百貨店にある店舗数字管理(本の広告デザイン、売上把握、各々の提案、各百貨店へのプレゼン資料作成)
全国にある小売宝飾業者との連絡、各営業の進捗状況管理(数字込み)、東京銀座にある直営店の人事etc..
本社勤務であるはずが、東京の店舗周り、
東京の展示会の手伝い、あれやこれやいう間に何でも屋になってしまってました。
🔽 そんなこんなで、バタバタした日々を過ごしておりましたが
1年を過ぎたころに、関西に新しい営業所を再度作るから行ってきてと言われました。
営業も、販売も、システムも、資料作成も、プレゼンも、数字管理もすべて出来るから
任せたわね、という感じでした。
激動の1年でしたが、この1年は今に続く仕事のあり方を作るキッカケになりましたし
あの時の1年があったからこそ、今があるんだなぁと思うレベルの経験を色々させてもらいました。
【 成人期 外資・関西編 】
関西に戻ることになり、
送る会も本社皆でしてもらって、営業含む、管理職(社長以下すべて)の会議の中で
私の仕事を振り分ける事になりました。
その時になって社長が驚いてましたが、
あなたこれ一人ですべてやってたの?と言われましたが、
【 いやいや、社長が任せたんですよ。。 】という感じで内心思いつつも、
私がやっている仕事を合計10人以上で分けて、解散となりました。
関西に戻ってきてからは
元から私を誘ってくれた所長、課長がいて、
1年経過してパワーアップした私がいて、後は事務を雇ってという流れでした。
仕事もスムーズにいきましたし、
元の営業に戻れて嬉しかったのもありましたし
関東と関西の人間では、やっぱり人当たりが違ったりしましたので
元は関東育ちでしたが、関西の方が長くなり、戻ってきてホッとしたのを覚えております。
🔽 関西に返ってきてから数か月後の昼過ぎ。
関西の営業所で会議をしていると、ユラユラ・・と部屋が揺れ出しました。
酔うぐらいユラユラしていて、
所長に、どっかで地震あったんですかねぇ?とか、のんきに喋っていたら
それが東日本大震災の311でした。
これは今生きている方であれば
全ての方が経験しているとは思いますので割愛しますが、
私も含めて、色々な業種に影響がありましたし、働き方自体に疑問を抱く機会にもなったと思います。
※この時点で既にFXをやっていて、FX家庭教師も始めてました。
🔽 その後は色々混乱したものの、
営業の仕事は継続しつつ、名古屋から九州(四国込み)に至るまで出張続き。
出先で資料を作り、各小売店の社長に提案&プレゼンしつつ、
地方の小売店に営業をかけつつ
月1回東京の会議に行き、売り上げもろもろ報告しつつ、
至って順風満帆な営業生活が出来ました。
営業もしつつ、関西の店舗管理もしつつ
大阪の某百貨店の副店長迄いきつつ、路面店が新しく大阪梅田に出来るので
そこの店長を任されかけたりしましたが、その時たまたま別の外資からきた新部長に阻止されたりしました。
※その新部長は数か月でクビになりましたが(汗)
とはいえ待遇は副店長に近い形で路面店で仕事をしつつ
また営業もしつつ、毎年その会社で大きいイベント(外資の展示会)を関西で立ち上げたりしてたので
※京都や奈良の有名なお寺を貸し切って、そこに外資専用(主に外商顧客や優良顧客対象)のイベントをする感じですね。
それの打ち合わせもろもろしつつ、忙しくしていると、
気付けば数年入れれば・・という外資の会社に合計7年以上在籍しておりました。
※7年在籍した中で、単純に数えても30人以上はクビになってました。
その合間に結婚をして、子供も二人授かり
順風満帆と行きたかったわけですが、7年もいると外資系の給料の天井もわかってきて
もうすぐ30、チャレンジするなら・・という感じで
その中でフツフツと独立心みたいなのが湧いていたりしました。(この当時は兼業トレーダー 兼 FX家庭教師)
【 成人期 FX専業トレーダー編 】
結論から言いますと、30歳過ぎを機に心を決めて
専業トレーダーの道に進みましたが
FXとの出会いはもっと若いころでした。
春も終わり、これから暑くなるであろう
夏の始まりを告げるセミの鳴き声が徐々に聞こえ始めたお昼時。
20代前半の私は自分の実力のみでお金を稼げる
FXトレーダーという仕事があるのを初めて知りました。
日々、表参道の職場と渋谷神山町の家を往復しているだけの平凡な暮らし&生活の中
職場近くにあった外苑前にある書店の、とある本を見て
【 自分も企業に依存せずに、自由な時間とお金に満ち溢れた幸福な人生を送りたい!】と
強く思ったのを今でも記憶しており
その日の帰宅時に、書店で購入したFX本を鞄の中に入れたまま
【 いつか専業トレーダーになるんだ 】という事を決意した記憶があります。
【 上手くいかない日々 】
ところが、いざFXを始めてみると
自由な時間やお金に満ち溢れた幸福な人生どころか、
仕事以外すべての時間をFXに費やしているのにも関わらず
勝てるどころか、お金は減る一方で、安定して勝つこともままならず、お金も一向に増えません。
早く実力をつけて稼ぎたいという【 気持ち 】だけが先行し
資金は減り、精神も減り、時間も減り、そうなると更なる焦りから、
家族の為にやっているのにも関わらず、家族との距離は広がっていく一方でした。
今振り返ると自分一人の思い込みで始めたのにも関わらず、
何でこれだけ頑張っているのに、理解してくれないんだ!と
家族に対して怒りの感情が出てしまっていて、それが更なる負のループになり、
相場も家族もすべてがバラバラになっていったんだと思います。
そのような感情でトレードをしたとしても
やはりうまくいくわけもなく、途方にくれる状態が続き
正解が見えない暗い雲の中を上下左右も分からずに、
彷徨っている感覚が数年続いたのを記憶しております。
【 継続は力なり 】
それでも諦めずにコツコツと続けていって、
継続は力なりの結果もあり相場の仕組みの解明や、
ロウソク足を基に作った基礎パターンでの手法構築のおかげもあって
少しづつですが成果が出始めてきて
月10万~、30万~、50万~と、月を追うごとに安定的に稼げるようになってきました。
これだけやっていれば勝てるというのが
大体わかってきた頃、経済的には豊かになってきましたが
自分が求めていた理想の【 幸福感 】とは何か違う気がしてました。
【 人生の転機 】
そこからも日々淡々とトレードをしつつ
勝ちたいという方にもレッスンをしてトレード手法や技術を教えていく中で
自分の原点を見つめ直す転機が訪れました。その方はHさんと言って私のレッスンを受講して1年~
年齢は40~50代、職業は士業で
非常に素直に且つ熱心にFXに取り組んでおられる方でした。
ちょうどレッスン開始から9ヶ月目~ぐらいで
実践で勝てるようになってきており(1ヶ月に20万~30万程)
勝てるようになってきても、日々のトレードや週の見直しはかかさずに行っていて
私よりも年上なのにも関わらず、その素直さや熱意やチャレンジ精神を尊敬しておりました。
そのHさんが
1年目の節目にパタンと1ヶ月ほど連絡が取れなくなりました。
どうしたのかな?と思って
連絡をするものの返信がありません。
レッスンを11年間やっていると、
突然連絡もなく退会される方は当然おられます。
Hさんもその中の一人だったのかな・・と少し残念に思いながらも
他の受講生の方もおられるので、
またいつも通り、トレードとレッスンに明け暮れておりました。
その連絡は突然きました。
Hさんからメッセージがきたのです。
【 ご無沙汰しておりました 】から始まり
その次の文章を見たときに1ヶ月連絡が取れなくなった原因がわかりました。
お盆明けから体調が悪くなり~、
入院~手術、大腸癌で肝臓に転移~・・と。
その方は非常にまじめな方なので
そこまで手の込んだ言い訳をしてレッスンを辞めるというのも
辻褄があわないと直感で思いました。
スカイプも一番しているんじゃないかというほど数はしておりましたし
人となりみたいなのは
会話の中でわかっていたので、それが嘘ではないと瞬時に悟りました。
FXの期限自体は半年コースでしたが
残りの期限も残ってましたし、辞める理由が通常であれば
見当たらない(実践で毎月数十万稼げている、スカイプ良好で上り調子)状況でした。
これからようやく更に稼げるようになっていくという場面で
そういう病気になってしまったという事実に
Hさんも現実をなかなか受け入れられないとおっしゃっていました。
当然そういう状況化ではFXをやることすら難しいですので
私も出来る限りの癌に関する情報をお伝えして、
また元気になったら、いつでも連絡してくださいとお伝えしました。
【 下記は実際の文面です 】
上記の連絡後、2018年9月21日以降から頭の中にフツフツと
【 幸福感 】について考えが巡りました。
昔の自分を振り返ってみると、
お金があって、時間もあって、家族もいて、それが幸福と思ってましたが
Hさんとのやりとりの中で
それって自分が自己満足する為だけの【 幸福感 】という事に気が付きました。
もちろんそれは一つの到達点かもしれませんし、
それ自体には満足しております。
ただ、それ以上に自分にしか出来ない事があるという事に
改めて気付かせて頂きました。
自分だけが幸福なのではなく、
【 自分と関わった人すべてに幸福になってもらいたい 】と強く心に思いました。
現在の活動【 FX指導 = HP更新、ブログ更新、Youtube、Twiiter 】でも
勝ちたい人だけを勝たせる行動はしてきておりましたが
それ以上にもっと多くの人に知ってもらって幸福になってもらいたいという気持ちが
日に日に大きくなっていきました。
私一人の活動ではありますがそれが更に広がっていけば、
皆が幸福になるのは当然の事、
投資(FX等々)に関する古い認識(投資はギャンブル、投資は怖い等々)を
根底から覆すことにもなりますし
※しっかりとした知識でトレードをすれば、堅実に資本を増やせる生涯使える技術=投資(FX等々)
日本の投資技術自体が底上げされる事に繋がっていき
日本に対して貢献できるのではないか?という気持ちにも繋がってきました。
【 広がる仲間 】
相場の仕組みから読み解いた
未来永劫使える基礎パターン、そしてその基礎パターンからなる
手法をみんなに知ってもらって、幸せになってもらいたいという想いを発信して
今まで以上に指導に取り組んだ結果、その想いを受け取った仲間達が
ドンドン増えていき、今はYoutubeにも広がっていっており
FX指導歴11年目にして遅咲きスタート(SNS等々)ではありますが、地道にコツコツと、
私の思い描いていた世界に近づいているのを日を追うごとに実感しております。
【 FX指導は天命 】
今振り返れば、勝てる迄は辛いと思う日々の連続で、
いつまでこれが続くのだろうと思う日々もありました、
叫んだ夜もありました、泣いた夜もありました、自分を責める夜もありました、
薄暗い雲の中を左右上下わからずに歩いている感覚の夜もありました。
ただ今はその経験があったからこそ
幸福感とは何なのか?も実感できたと思っておりますし、幸福感をまだ実感出来ていない方に
リアルに実感してもらいたいという行動に移すことが出来たのかなと思っております。
私がFXをやりたいけど何か怖いしどうしようかな・・と
躊躇していた20代前半、高校~大学の7年間一緒にいた友人が連続して同じ年に二人亡くなりました。
その一人とは亡くなる一週間前に電車でばったり会い
高校大学を思い出して、他愛もない会話をして
【 また今度遊ぼうな 】と声をかけそこで別れ、次に出会ったのはお葬式でした。
人間はいつ死ぬか分からないからこそ
迷ったら今この瞬間からチャレンジするという事を
友人二人から、そしてHさんから学ばせて頂きました。
【 そういう経験をしてきた私だからこそ今伝えられることがあります 】
まだまだ日本には以前の私のように
FXは怖いしどうしようかな・・や、なかなか勝てないけど諦めずに勝ちたい・・
と思い悩んでいる方は多いかと思います。
そういう方達が、実際に勝てるようになり、
幸福感を実感出来るように広めていきつつ、
その【 循環の輪 = 和 】を日本中に広めていく事で、
日本の投資技術向上にも繋がっていき(投資に関する認識も根底から覆す)
【 輪 = 和 】を作るのが【 私の天命 】だと感じている次第です。